2021/10/10

国際的なマンガ人材を育てるには

■ 国際的なマンガ人材を育てるには

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2014/3/8(土) 8:30ー

 2回目となる海外マンガフェスタ。東京ビッグサイトで開催しました。ぼくは実行委員会の顧問を務め、事務局をぼくが代表を務める融合研究所が引き受けています。

 http://kaigaimangafesta.com/

 世界のマンガ教育についてパネルを開きました。国際的な人材育成をどうするか、がテーマです。在日フランス大使館文化部参事官ベルトラン・フォールさん、トロント・コミック・アート・フェスティヴァル代表ペーター・バークモーさん、日本工学院専門学校クリエイターズカレッジカレッジ長佐藤充さんにご登壇いただきました。フランスからは政府、カナダはフェス代表、日本は学校という、3カ国の違う立場のかたがた。

 冒頭、ぼくが話したことをメモしておきます。

 日本はマンガ大国です。出版物の64%、売上高の20%がマンガ。ドイツは1.6%、フランスは0.4%というから、20%という日本は異常です。だからこそ海外から高い評価 を得ているわけで。先行して海外で人気を得たアニメの多くはマンガがベースです。マンガは日本文化の中心であり、増殖炉でもあります。

 クールジャパンという言葉が生まれたのは10年前のこと。それは日本が言い出したことではなくて、海外からそう言われて気がついたものです。日本は自国のマンガをどう捉えるのかが改めて問われています。

 マンガは国内で大切にされていたわけではありません。教育に良くないといって長く社会問題になっていました。しかし10年ほど前から、海外の評価も受けて、とても大切な文化であるとの認識が広がり、政府もメディア芸術として後押しするようになりました。

 10年前に政府は内閣官房に知財本部を置き、私はそのコンテンツ調査会長を務めています。そこでもマンガは中心的な位置づけとなっています。また、今年 は政府にポップカルチャー分科会が設けられ、その議長も務めたんですが、そこでもマンガ原作者が委員となって、振興策を議論しました。いずれも、人材をどう育成するのかが中心的なテーマとされています。 そして、文科省は人材養成の事業を実施しており、今日こうしてシンポジウムの開催に至っています。とはいえ文科省はじめ日本政府は、こうしたポップカルチャーの分野は政府主導ではなく民間主導で進めるべきという姿勢も明確にしています。われわれが自ら考えなければ。

 一方、アメリカのコミックスやカナダのマンガはもちろん、仏のバンドデシネや、アジアでも自国のマンガは大切な文化として認知されています。マンガという表現様式が、各国の文化に立脚して、多様で、深みのあるものに進化しているのは素晴らしいこと。各国のマンガ関係者が連携して、地球のマンガ文化を発展 させたいところです。

 パネラーへ質問。

 こういう海外マンガフェスタのような場は意味があるでしょうか。

 仏:フォールさん「マンガのグローバル化は著しい。交流も盛んになってきて、互いに影響し合う面が増えています。さらに分野を広げ、フィギュアや映画など、他分野との交流も重要になります。作家同士が世界観をたたかわせる場も大切です。」

 加:バークモーさん「カナダのマンガ産業は日本ほどの規模はありませんが、フェスの雰囲気は似ています。作家や読者が参加して、互いに発見を重ねていくことが大切。しかし、こういう取組に日本もフランスも政府が支援しようとしているのはうらやましい。」

 日:佐藤さん「ファンが集まるという点が重要。クリエイターが刺激を受ける場を大切にしたいです。」

 もう一問。ぼくはマンガ家になりたかったけど、なれませんでした。どうしたらいいかさえわからなかった。マンガ家を育てるには、あるいは、マンガ家が育つには、何がポイントでしょうか。

 仏:フォールさん「パッション! 情熱です。」

 加:バークモーさん「ノートを常に持ち、描け、ということでしょう。」

 日:佐藤さん「小さいころから絵を描かせることが大事です。ただ、それだけではダメ。マンガ産業を拡大させ、メシが食えるにならなければいけません。その両方が重要です。」

 ですね。描かせて、ホメて、パッション!を維持すること。そして、産業基盤を形成し、才能ある若い人たちがこの分野に身を投じようとすること。この両輪ですね。


2021/10/09

ネパールの小学校にて 

 ■ネパールの小学校にて 

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2013/4/6(土) 8:46ー

  



メインの通りなのに、アスファルトは穴だらけ。車が揺れるというより、跳ねる。父と母に子どもが挟まって、3人乗りのバイク。パパーン、プゥ、パラパラ。クラクション、クラクション、クラクション。路地だってぶっ飛ばして逆走してくる。たまに見かける信号は、全く灯りがついていない。

 若い男女は闊歩しながらケータイ。不作法だ。でも、ドンキングのようなイノシシの頭を置く肉屋には、作法がある。電柱に牛がつながれている。その頭上では電線が25重ぐらいに巻かれている。ペンキ屋。金物屋。チューブ屋。工具屋。基本、DiYなんだな。あちこちへこんだ乗り合いの三輪車はギュウギュウを通り越し、外にあふれた人が車体にしがみついている。日本語でそれハコノリって言うんだよ。パパーン、プゥ、パラパラ。

 標高1330m、500万人都市。ネパールの首都、カトマンズです。

 最初はグー。と同じアクセントでカトマンズ-。と言うと、現地の呼び方に近い。

 人より神の方が多い町。イスラムに押されてインドから流れてきたヒンドゥーが8割、ヒマラヤの向こう、チベットからの仏教が1割。土着信仰も混じり、独特のネワール文化を築いています。36のジャート(民族というか、コミュニティ)が同居しています。

 あんた日本人じゃね?とおぼしき人もいれば、日焼けサロンに通い詰めたギリシャ人のようなのもいます。ぼくが着物で歩いていても、腰に布を巻いた似たような男はたくさんいるので、日本にいる時より目立ちません。

 町がモヤってるのは、排気ガスか、砂埃か。道路に座って靴磨き客を待つ男3人。たぶん、来ないね。しゃがんで、何もしていない男5人。潔く、日暮れを待っているのね。道の脇はレンガがうず高い。壊しているんだろうか。作っているんだろうか。赤と黄と緑の布をまとう女2人。勢いよく歩く。道に出てきて洗濯物を干す女2人。かいがいしい。

 脇の太い木には枝にロープをくくりつけ、ブランコにしている。おい坊主、そんなに高くこぐと、間違ったら死ぬぞ。路地を全速力で走り回る子どもたち。おまえら裸足じゃないか。走れ、走れ。同じく走る、野良犬の群れ。こんな雑踏に。噛まれたら泡ふいて死ぬぞ。茶色のヤギと白黒の子ヤギ。並んで歩くが、親子か。野良か?この、道をふさいでいる牛も、野良かなぁ。道を外れると土煙が立ち上っている。壊しているんだろうか。作っているんだろうか。

 GDPは鳥取県より小さく、一人当たりだと$650、後発開発途上国。しばしば停電となります。海外にグルカ兵を派遣し、傭兵を産業としている点では、昔のスイスのようですね。大国に囲まれ、世界の屋根たる山脈を持つのも似ていますが、「第三の男」の台詞、”スイスの同胞愛、500年の平和と民主主義は何をもたらした? 鳩時計さ。” てな のどかさはありません。

 19世紀初め、英国とのグルカ戦争に敗れたものの独立を維持、しかし政治は混沌。2008年に王制が廃止されたばかりですが、第一党の共産党マオイスト(毛沢東主義者)と、連立与党22党と、国軍、そして大統領と首相とがせめぎ合っています。日本の政治がまともに見えてしまうじゃありませんか。

 しかし、なのに押し寄せる熱気。ぼくがこよなく愛するこの雑踏の猥雑さは、イスタンブールやハノイ、カサブランカや西安、それらとも似た、大阪よりもでかい人口を持つ都市のみから沸き上がる発酵エネルギーなのでしょう。

 

 


公立校Shree Rudrayanee Secondary Schoolを訪れました。眼下に壮大な棚田が広がり、母親たちが収穫に体を動かし続けている、その向こうにはヒマラヤの白い山頂が連なっています。村を歩き、4歳から16歳まで、260人の子どもたちが熱狂的に迎えてくれる門をくぐると、建物は崩れ落ちそうで、設備も乏しい。でも、子どもたちは英国風の立派な制服をまとい、レジメンタルのタイを結び、黒の革靴をはいている。みな英語を話します。ネパールの公立校はこんな感じだそうです。ハコよりヒトにかけていますね。


 屈託なく、まっすぐにぼくの目を見抜いてくる。見たこともない格好をしてコンピュータを手にした不思議なぼくの目を透過して、もっと遠くの、これからの何かを見つめている。一緒に遊んでくれたみんな、ありがとう。名刺を渡したら、食べちゃった2歳のSanjey、ありがとう。またいつか、地上で、会おう。

 


2021/10/08

自動翻訳電話を立ち上げたおはなし

 ■自動翻訳電話を立ち上げたおはなし

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2013/10/26(土) 8:36ー


 NTTドコモが英語・中国語・韓国語・ドイツ語・フランス語など10カ国語に対応した会話翻訳アプリを提供しはじめました。クラウドのサービス。対面や電話で利用することができるといいます。

 日本語の認識精度が90%、英語が80%程度といいます。おそらくこれはビッグデータを使ったデータベースの増強により、急速に向上していくでしょう。ネット上ではエキサイト翻訳やグーグル翻訳が活躍してきましたけど、いよいよ会話の本格実用です。

 感動しています。ぼくは世界で初めて、自動翻訳電話に関わったからです。たまにはちょっと自慢話をしてみます。

 昭和60年、1985年、「自動翻訳電話システム開発マスタープラン」が政府・郵政省から発表されました。ぼくが取りまとめ役でした。社会人になって初めての仕事でした。

 前年、役所に入ったぼくは、通信自由化、郵政・通産戦争、対米交渉の最前線、データ通信課に配属されました。電電公社民営化で入るNTT株2兆円のぶんどり合戦が政府部内で起きており、巨額の研究開発費を要するプロジェクトを用意しようとしたわけです。でも人手がなく、新人が担当になったわけ。

 音声入力、機械翻訳、音声合成の三要素を組み合わせて一つのシステムを作る。巨大なデータベースの構築が必要になる。世界に例はない。学界や関係業界による大型プロジェクトを作るための研究会を設け、京都大学長尾先生に座長になってもらい、プランを作っていました。

 それが政治抗争に発展し、推進体制を決める年末はすさまじい日々で、一週間で10時間しか眠りませんでした。でも人間、何とかなると知りました。社会人一年生でそれを経験させてもらったのが人生最大の収入です。ボスの課長は内海善雄さん、その後国連機関ITUの事務総長に上られました。当時42歳。若い。昔の役人は、若いころに仕事をしていたんですね。42歳と22歳の新人がやってたんですから。

 結局、投融資機関として基盤技術研究促進センターが設立されて、そこから京阪奈学研都市にATR(国際電気通信基礎技術研究所)が設けられることになりました。ATRは世界的に著名なメディア研究機関に成長しました。ぼくは生みの親の一人です。そう主張する人はたくさんいるはずですが、ぼくも主張します。

 あれから30年近く。自動翻訳電話が実現しました。もう一つ、感動的なことは、当時想像していた姿とは全く違っていたことです。ぼくらが思い描いていたのは、1)黒電話で話す中身が 2)回線交換を通じ海外の人に翻訳される姿。3)当時、日米の電話代は3分1530円でした。企業ユーザがどれくらい使うかね、というイメージ。だから、4)研究の中心は、国際通信を法的独占していたKDDの研究所でした。

 ところが、実現してみたら、それは1)スマートフォンというモバイル端末を使って、2)インターネットという通信網で翻訳される。3)ほぼタダ。しかも、海外の人とつながるというより、目の前にいる対話相手に対し、ネット経由で通訳してもらうという使用法。それを開発したのがKDDじゃなくて4)電電公社の末裔。ぜんぜん違うわけです。自慢になりませんね。おもしろいです。メディアは。


2021/10/07

勤め上げるのは大変な能力が要ります。

■勤め上げるのは大変な能力が要ります。

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2014/1/25(土) 8:30ー


 銀行員が起業したり、メーカから大学院に進んだり、インフラ会社からNPOを起こしたり、役人から出馬したり、周りにはそんな知人が多いけど、結果うまく行ってる例は多くありません。

 ぼくは郵政省という日本一デカい組織のど真ん中の部署を辞めて、(ほぼ)自由人になりました。でも、勘定がプラスというわけではありません。組織を出て得た自由と、不安定さとでプラマイぼちぼちってとこです。

 ぼくが15年勤めた組織を出たのは、才能があったからじゃなくて、断じてなくて、勤め上げる能力がなかったためだと考えます。

 社会人になったころ、いや、辞める1年前までは、ぼくはてっきり役所内で出世を重ねて、勤め上げるもんだと思っていたのです。それが、コロっと辞めちゃったのですよ。それはさしたる計算の結果ではなく、なんというか、勤める寿命がつきたという感覚に近い。

 役所を出て今度は4~5年おきに職場を変えています。コロコロしています。勤め上げる力は依然ついていません。

 同年代や年長のかたでキチンと勤めている人をみるたび、勤め上げる力を持ってるよなぁと感嘆します。もちろん、ダラダラ禄をはむというのではなく、重厚かつ超長期に成果を上げ続けているのです。

 リスクは自覚していました。正否はその後の成果でのみ評価されています。これだけはアドバイスできます。組織を飛び出す人は、そのリスクを自覚すべきだし、周りは出たことだけでホメそやすべきではないと思います。

 ぼくはベンチャー企業の役員や顧問を5社ほど務めており、起業やベンチャーの環境を整えたいと思いますが、だからといって起業を推奨するわけではありません。割に合わないから。

 サラリーマン暮らしを断念し、「屋台でも引くか」というのが昭和のステップダウンの典型でした。カッコいいベンチャー起業というより、多少の悲哀がありました。屋台引くより勤務を続けていたほうが割に合ったことにスグ気づく。たいてい。今の起業も同じじゃなかろうか。

 ところで、政策としてベンチャーを増やすのは、基本的にはいいことだと思います。元気が出るから。でもそれは産業政策としてではありません。文化政策としてです。

 経済的には1億円のベンチャーが100社できるのも、大企業が100億円のビジネスを1発立ち上げるのも同じ、というか後者のほうが打率がよかったりします。

 文化政策としては、ベンチャー企業が増えることで、たくさんの金持ちが生まれて、パトロンが量産されることを期待するのです。

 旦那衆がカネをばらまくこと。歌、踊り、芝居、絵画、美食、ファッション。番頭の渋い顔をよそに、そういうことをしてくれるオーナー経営者を増やすこと。

 株式公開で金持ちになった社長がくだらないことにカネを使うことを税制で支援したい。クールジャパン。

 アマゾンのジェフ・ベゾス氏がワシントンポスト紙を買収する件に対し、短期利益を求める企業が株を持つよりも長期保有が可能な富豪に持ってもらうほうが安定的とする指摘を散見しました。新聞という大きな文化さえ、ベンチャーの成功者が支えなければならない。

 文化保護策は、個人パトロンが守るアメリカ型か、国が守るフランス型しかないのかもしれません。

 

 話がそれました。勤め上げる力って大切だと思うんです。サステナブルに働いて、組織として大きな仕事をなしとげる人のボリュームが国としても大事だと思うんです。

 では、勤め上げる力はどうやって育むことができるんでしょうね。ぼくには語る資格がありません。


2021/10/06

テレビはスマートの宿題を済ませろ

 ■テレビはスマートの宿題を済ませろ

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2013/7/20(土) 9:40ー


 高画質テレビ規格「4K」(フルハイビジョン)と「8K」(スーパーハイビジョン)が注目を集めています。昨秋のCEATECやInterBEEでも高画質モデルが展示されていて、スマートテレビと双璧をなしていました。1月には総務省が来年夏に衛星で放送する方針を示しました。

 ぼくはIPDCなどスマートテレビに力を入れています。4K、8Kがキレイに見せる技術であるのに対し、スマートテレビはべんりに楽しむ技術。日本ではNHKハイブリッドキャストやマルチスクリーン型放送研究会などの動きがあります。最近はテレビをAndroid端末にする装置が盛んに宣伝されていますね。

 キレイか、べんりか。両立させられるといいのですが、資源には制約があります。放送、通信、メーカ、ソフトウェア、コンテンツ・・・どのセクターがどういう資源をどう配分するか、そのスピード感はどうか、が大事です。

 地デジはキレイでべんりなテレビを実現するものです。ハイビジョンと、テレビのコンピュータ化を同時に達成するものです。それが整備されて現れた問い、「4Kかスマートか」。さて、どうでしょう。4Kは苦境にある日本のメーカーが再生する切り札だと唱える人もいます。総務省も期待しているのでしょう。これに対し、ぼくはスマートが先だと考えます。

 地デジでとりあえずテレビはキレイになりました。多くの家庭がテレビ受像器を買い換えました。そこですぐもっとキレイな4Kと言われても、というのが実態でしょう。さらにケーブル配信業者に聞くと、高精細HDの伝送は25%に過ぎず、以前のSD画像がまだたくさんあるといいます。さらなる高精細のニーズは本当にあるんでしょうか。高精細にしても広告が増えないことは経験済みで、ハイビジョンの頃と違って銀行もメーカーも弱ってる中で、どう資金を投下するかも課題です。

 これに対し、地デジでべんりになったかというと、それがまだ達成できていません。デジタルならではの面白いサービスが開発されていません。その部分は、スマホやタブレットが単騎でニーズをくみ取っています。テレビとスマホを組み合わせて豊かなサービスを作り、テレビ広告以外の新ビジネスを組み立てる。こちらは次の市場とニーズが見えます。テレビにはまずはその宿題を済ませてもらいたい。

 一方、デジタルサイネージやオープンデータの推進役としては、4K、8Kに期待しています。ビジネスはこの業務用から立ち上がるでしょうし、有望だと思います。スマートテレビ放送より業務4Kのほうが早いかもしれません。サイネージが超高精細を欲しがっているのは当然ですし、その表示技術も伝送技術もできてきました。課題だったコンテンツも、この数年でずいぶん充実しています。

 より切実なニーズがあるとすれば、映像のビッグデータ活用じゃないでしょうか。監視カメラに写るデータを、目視ではなく機械システムとして抽出、処理、分析できるほどの精細な映像を得ることができれば、利用は面的に広がります。8Kのような超高精細の映像は、人間より機械のほうがより強く欲しているのではないか、と感じます。


2021/10/05

改めて、デジタル教育反対派に問う

 ■改めて、デジタル教育反対派に問う

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2013/7/27(土) 8:52ー


 オモチャのタブレット端末が売り出されています。3歳児がネットで遊び、学ぶ。その子たちが学校に上がるころにはデジタルのベテラン。学校でデジタルに触れさせるか否か、なんて議論はもうバカってかんじ。

 でも、なおデジタル教育に対する批判はあります。デジタルのメリットとデメリットの議論、やるかやらないかの議論を続けているのは日本だけだという揶揄を海外から受けておりますが、そうは言ってもまだ残ってる。

 これまでぼくらは、そのデメリットについて、そのリスクやコストについて、説明とか検証とか成果とかを求められ、質問を浴びてきました。でも、もうそういう段階ではない。やらないことのリスクや、やらないことのコストのほうが目立ってきています。これからは、反対派に対し、そのリスクやコストについての説明責任を問いたいと思います。こちらから質問をしていくことにします。

 そこで、デジタル教育批判に関して、かつて10の問いを並べてみたのですが、まだ有益な回答はありません。改めて要約しますので、反対派のみなさん、お答えください。

1 デジタルによる学力向上の効果について、非デジタル学習のほうが学力向上効果が高いという成果、評価を示してもらえませんか?

2 紙には紙のよさがあり、鉛筆には鉛筆のよさがある一方、世界と瞬時につながり、映像も音楽も利用・生産できるなど、デジタルにしかできない効用があると思うが、アナログはその機能をカバーできますか?

3 デジタルがもたらすゲーム的なわかりやすさは思考力などと無関係ではという指摘について、では勉強へのインセンティブを高める点で何が問題なのか、インセンティブを高めることに関するアナログの優位性は何なのかを教えてもらえませんか?

4 デジタルを導入すると画一的な○×学習になるという指摘について、ネット授業は世界中の多様な考えの人たちと一つではない答えを教え合い学び合うことができるが、それに比べ紙のドリル学習のほうが画一的でないとする理由を教えてもらえませんか?

5 デジタルを導入すると読まなくなる・書かなくなるという指摘について、アナログ授業でも書かせなければかかないし、デジタル授業でも書かせれば書くし、つまり、問題はデジタルかアナログではなく、授業の内容だと思いますがいかがですか?

6 目が悪くなり姿勢が悪くなるという指摘について、本を暗いところで読んでいたぼくは目が悪くなりましたけど、じゃあ本を禁止しますか?

7 先生方が使えないから問題だという指摘について、2歳児でもタブレットをすいすい使いますが、本当に先生が使えないと言っちゃって大丈夫ですか?韓国ではほぼ全ての先生が問題なく使ってますけど、日本の先生は能力が低いと言っちゃって大丈夫ですか?

8 コストがかかるという指摘について、確かにコストはかかりますが、日本の公教育/GDPは先進国中ほぼ最下位で、教育にもっとお金をかけていいという気がするのですが、例えば小中学生1000万人に1万円のタブレットを配ると1000億円、それは年間の道路予算10兆円の100分の1だから、365日のうち3-4日、道路工事を休んだらできちゃう規模で、工事4日休んで全ての子どもにタブレットを!程度の話なんですけど、そのコストは国家として投資すべきではありませんか?

9 やる必要のあるところだけ実行すればよいという指摘について、隣の学校では使ってるのにうちは使えないのは不公平という格差問題のほうが大きくなると思うが、それにはどう答えますか?

10 教育を産業にすべきでないという指摘について、産業領域としてボリュームがないと投資が行われず技術も進まないので、それでよいなら日本はアメリカや韓国の機械や教材を導入することになりますが、そのほうがよいですか? アメリカではPCを教育のためにと消費者に勧めており、韓国ではスマートテレビやタブレットを教育のためにと広告しているが、その姿勢が弱い日本が正しいのですか? 教育に多くの投資が集まり、GDPのうちの多くが消費され、教員を含む関係者の収入が上がり、教育産業輸出国家になることの何が悪いのでしょうか?


2021/10/04

霞ヶ関の辺境から

 ■霞ヶ関の辺境から

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2013/3/30(土) 10:27ー


 民主党政権は政治主導を看板に掲げ、官僚排除で運営を試みたものの、すぐに挫折して、官僚の力を復活させました。財務省が政権を牛耳りました。自民党政権では原発でショボンとしていた経産省出身者が要所を固め、復権が取りざたされています。いずれにしろ、霞ヶ関です。

 一口に霞が関といっても、それぞれカラーがあります。財務省の前身、大蔵省は全省庁の予算に是非を下す究極の許認可官庁。ニコニコと人の話に耳を傾けつつ冷酷に首を切る力量が求められる。一方、通産省 (現経済産業省)は権限のない分野を開く狩猟族。ベンチャー志向おう盛な人種です。

 ぼくは郵政省(現総務省)の出身です。だから、霞ヶ関のことについてコメントを求められたりすることもあります。でも、ぼくにはほとんど答えられません。

 ぼくは80~90年代の郵政・通産戦争の最前線にいました。90年代初頭には郵政省の対通産担当に就き、直接交渉を任されました。通産省のカウンターパートたちは超エリートの切れ者ぞろいで、今も政官産学界の各方面で活躍中。ケンカしたくない相手ばかりでした。

 他方、郵政省は10円切手を頭下げて売り歩く前垂れ精神。上半身(頭脳)より下半身(足腰)がモノをいう。のっそり津々浦々を歩く。肌に合っていました。ただ、ぼくはコミュニケーションや表現にしか興味がなかったので、通信・放送・コンテンツってとこに就職しようとし、企業は落ちて郵政省だけ受かったから門をくぐったんです。公務員志望というわけではなく、大蔵にも通産にも興味がなかったのです。

 なんてカッコつけてみました。大蔵も通産も私のような不良を相手にするワケがない。ステージ衣装の黄色いスーツで面接に行くような田舎者を郵政省はよくもまぁ採用してくれたもんだと今さらながら思います。自分が人事担当ならそんなバカ必ず落とすもんね。

 なのに通信・放送の融合とか、ハイビジョンやISDNの否定とか、コンテンツ政策の確立とか、ぼくは役所内で反主流の旗ばかり掲げて、またオマエかと叱られ続けていました。それでも筆頭補佐にまで登ったのは、恐らく他の役所ではあり得ません。おおらかでした。そういうDNAは、今も残っていると思います。

 だから霞が関でくくられるのには違和感があります。特殊な役所出身だからというせいもあります。パンク出身だからエリートという感覚がないせいもあります。一般の霞が関論とぼくの感覚はズレています。

 例えば経産省を辞めた古賀茂明さんの著書に、彼が課長のころ所管財団をつぶしたとき、局長が「省益に反する」と非難したという逸話があります。しかし90年代中盤に郵政省が規制緩和をグイグイ断行したのはまったく逆で、権限を離すのが省益となったから進んだのです。

 通信・放送分野は、権限を手放すことで業界が活性化し、メディアも産業界も支持しました。それで担当者の評価が高まり、人事にもプラスとなりました。で、規制緩和のドライブが掛かったわけです。当時ぼくは規制緩和担当で、省内の規制当局に「緩和策を出せ」と迫る側だったのに、もういいよ!って止めなきゃいけないぐらいの勢いでした。

 誤解されることが多いのですが、規制緩和というのは、既得権の破壊でもあるので、役所としては規制強化する以上に仕事としては大変になることも多いんです。いったん緩和したら再強化はできませんし。腹をくくる仕事の連続でした。

 そんなに特殊なムラでも人種でもないと思うんです。評価メカニズムが大事なんです。今も役所たたきが続いていますが、権限を手放さない役所をたたくより、手放したやつを大々的に持ち上げてやればいい。実名でホメてあげて、出世させてやる。たたいてもたたいても、いい答えは出てきません。

 TPPにしろ東電処理にしろ電波競売にしろ、断行することで担当が出世するように組み立てれば政策は進みます。そうじゃなくて、役所をたたいても、殻にこもるだけ。霞が関もしょせん人の集まりで、フツーにくすぐってあげればいいんです。

 気になるのは、役所を飛び出して役所批判に明け暮れる元官僚。たいていは現役で政策が実現できなかった人たちの恨み言で、まぁそれは仕方のないこととしても、それを必要以上に取り上げるメディアの姿勢は、政策を歪めます。われわれ読み手側のリテラシー問題であることは承知しておりますが、メディアのみなさんもそのへん取り扱いよろしくお願いします。


2021/10/03

和田中に田原総一朗さんと行ってきた

 ■和田中に田原総一朗さんと行ってきた

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2013/7/13(土) 9:24ー


 東京都杉並区立和田中学校。かつて民間出身の藤原和博さんが校長を務め、地域に開かれた授業「よのなか科」で一躍有名になった学校です。その代田校長先生に呼ばれ、田原総一朗さんとともにデジタル教育の是非について討論する授業をやってきました。

 今日はディベート。賛成派と反対派に分かれましょう。デジタル教育について、和田中の生徒たちと、賛成派中村と、反対派田原総一朗さんの討論。生徒からの質問とぼくの答えをメモします。

・カネがかかるだろ?

 カネをかけようよ。日本の公教育コスト負担/GDPは先進国ほぼ最下位。教育にお金を使っていない。小中学生1000万人全員にタブレットを配るには1千億円かかるが、道路予算10兆円の1/100。年365日のうち3-4日道路工事休めばできちゃうということ。安いよ!

・法律がネックでは?

 お、勉強してるね。そのとおり。デジタルを正規教科書にするには、3法の改正が必要。新聞によれば昨日、田原さんは官邸で安倍総理に会ってる。次に会うときにそれを頼んでもらおうぜ!

・出版や鉛筆業界の失業が増える?

 かもしれん。他方、新ビジネスが立ち上がる。4兆円産業になるだろう。でも、同時に国際競争が激しくなる。世界の教育産業を見据えなければいけない。

・デジタルだと目が悪くなるんじゃ?

 これは研究中。デジタルだから目が悪くなるという研究結果はまだない。他方、テレビを見る赤ちゃんのほうが見ないより目がいいという研究もある。本だって目が悪くなる。読み方や姿勢は大事な問題。授業や家で普段どう読むか、どう使うかによる。それはデジタルだからアナログだからというのとは違う。

 ここで田原さんのコメント。「君たちバランスが取れすぎてるよ。」「ぼくは中学時代は教員をいじめるのが楽しみだったんだ。」あちゃ~。こういうのどう引き取るんだろう。するとある生徒が「ぼくもこれから先生と闘います」と表明。おう、頼もしいね。どんどん手が上がる。頼もしいね。

 田原さん「デジタルよりディスカッションだ。」「答えは一つじゃない。」デジタル教育を巡り、生徒たちは討論を重ねました。それぞれの意見をiPadで共有し、比較しました。その結果、授業の終わりに賛成・反対を尋ねたら、7:3という結果。まだ反対が3割残ったかぁ、くやしい。でも、ディスカッションしたよね、答えは一つじゃなくてバラバラだったよね、iPadというデジタルで共有したよね。

 これだ。こういう授業。デジタルはしょせん道具。こういう授業が広がれば、アナログかデジタルかなんていう不毛な議論は吹っ飛んで、子どもたちが頼もしく学んでいってくれるでしょう。


2021/10/02

インドの巨人の星

 ■インドの巨人の星

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2013/6/22(土) 14:55ー


 巨人の星19巻を電子書籍で一気読みしました。連載当時もむさぼり読んでいましたが、45年たって、花形が子どものころエリザベス女王に会っていたことを知りました。

 ところで、正月はインド・コルカタでした。宿のテレビをつけたら、「SURAJ」(スーラジ)が始まりました。インド版「巨人の星」。新しいクールジャパンのモデルです。アニメ「を」売る、から、アニメ「で」売る。スポンサーはスズキ、ANA、ダイキン、日清食品。クルマや旅行、クーラーやインスタント食品。昭和40年代にぼくらが憧れた暮らしを、アニメを通じてインドにも届けます。

 SURAJは野球ではなく、クリケットの物語。重いコンダラも、オロナミンCのCMも出てきません。でも父親は食卓をひっくり返してくれるし、いきなり養成ギブスも出てくるし、長髪のライバルは高級車(スズキ)に乗ってるし、だとすればいずれ魔球も登場し、オーロラ三人娘も現れるかしら。

 しかし、簡単ではありません。今週、SURAJを仕掛けた講談社の野間社長がぼくの授業にお越しになり、ローカライズの苦労を語ってくれました。食べ物を粗末にできないから、ひっくり返す食卓には水しかない。バネのギブスは児童虐待になるのでゴム製にした。高級車は自分で運転するのではなく運転手つきにした。てな具合。

 45年の間に日本はアズナンバーワンに成長し、弾け、20年を失い、衰退と言われるまで浮き沈んでいます。インドはどうでしょう。バンガロールのITベンチャーのように、45年前の日本を凌ぐ世界最先端の輝きをもつ分野があります。2030年には12億人と世界一の人口をもち、国際社会への発言力が増すことも予測されています。

 一方、この町では、今もすさまじい格差があります。終戦直後のヤミ市でもここまではと思わせる壮絶な雑踏。腕のない物乞いの老女。足を切り落としたと思われる物乞いの子ども。すわり小便をする男。うろつく犬、犬、犬。路上に生まれ、路上に暮らし、路上に死んでいく人が数百万人と言われるコルカタ。インドの中でも最も雑然としたエネルギーを発散しています。

 公園では、おびただしい数の人たちがクリケットに興じています。大人に混じり、多くの少年たちが瞳を輝かせています。SURAJを見て、プロ選手を夢見て、魔球を編み出そうとする、45年前のぼくらのような連中。飛雄馬の長屋が現実だったぼくらのように、今を生きる連中。君たちは、開かれた高揚感を共有しているでしょうか。

 しかし、TIMES of India紙の元日号では、一面で「21世紀生まれがティーンズ入りしてフェイスブックに参加、社会に軋轢が起きるだろう」と論じています。デジタルはここにも急速に浸透します。巨人の星が45年かかったのと対称的に、ITは瞬時にして、インドも日本も同時に若い世代を塗り込めます。

 インドは巨人の星を消化し、成長を謳歌するでしょうか。デジタル化が近代化を促すでしょうか。あるいは、グローバル化や民主化の圧力が混乱と社会不安を増長するでしょうか。ぼくにはわかりません。ただ、45年後、インドの子どもたちにとって、日本がなおも星のように輝いていることを祈ります。


2021/10/01

いとおしいコルカタの光

 ■いとおしいコルカタの光

ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2013/6/29(土) 8:44ー


 コルカタ。かつてのカルカッタ。1911年にデリーに遷都されるまで、長くインドの都でした。インドで最も雑然とし、得体の知れないエネルギーを発散する街。

 薄暗い市場に迷い込んだ。肉の臭い。内蔵の臭い。獣の皮の臭い。足下は鮮血が川のように流れている。白や黒のヤギが何頭もつながれている。たくさんのニワトリが網の中で声をたてている。男たちが、無言で、それらを裁いている。この場で殺し、この場で処理し、それを商品にして、この場で売っている。屠殺、解体、精肉、そして小売りの兼業。「フレッシュ、フレッシュ。」肉塊を押しつけてくる。確かに、新鮮であろう。

 駅前の群がりは、これもどうやら市のようなのだが、路上の暮らしと一体化していて、商売なのか、消費なのか、生活なのかが余所者には判然とせぬ。うずくまるように横になっているが目だけギラギラとこちらに向けている男。下半身ハダカの子。裸足だ。脇を通り抜ける犬、犬、犬。カレーのようなものを火にくべている女。もうもうと湯気が立ちこめる。そこに手を突っ込んで喰っている子。姉妹だろうか、しゃがんで互いのシラミとりをしている。ぼくに手を伸ばし物乞いをする老女。

 「ハッ。」かけ声とともに、頭が落ちる。毎朝20頭のヤギがいけにえとして捧げられる。押すな押すなのヒンズー信者がありがたく見守る。脇には、それまでに斬られた黒い子ヤギの頭が5つ転がっている。体はきちんといただくらしい。このカーリー寺院には、沐浴のための池があり、その縁にシヴァ神の像がたたずむ。寺院の担当者が手招きする。なんでしょう。「お前は何人家族か」4人ですが。「では4000ルピー出しなさい ナマステー」なんでやねん。

 巨大な拡声器を積んだクルマと、怖ろしい形相の女たち。それを取り巻く野次馬たち。道路を占領し、クラクションが一段と激しい。デリーで集団レイプがあったとかで、抗議行動が市街地を占拠している。マザーテレサはこの街のスラムから活動を始めた。情熱が似合う街だ。だが、一歩、喧噪を離れると、泥沼があり、その縁では男どもがうずくまっている。休んでいるのではなく、動くことの消耗を避けているのだろう。静、が日々の大半と思われる。じっとしている、が人生の大半と思われる。いや、動く人影も数名。粗末な道具で釣りをしている。周りの静たちが、じっと、見ている。

 夜中。天空にはぽっこりと黄色い満月。窓の下が騒がしい。黄色とピンクのサリーをまとった女性がとっくみあいをしている。全く気にとめず、人力車引きがヘトヘトに座り込んでいる。タクシーに仕事を奪われ、やるせない。明日の露天を開く商売道具か、骨と皮だけの男が、体よりも大きな袋を頭のてっぺんに担いで歩いている。脇を通り抜ける犬、犬、犬。それよりもけたたましく人をかき分けるバイクと自転車。日中、レバーをぐるぐる回してトウキビを潰し、ジュースをふるまっていたおやじが店じまいだ。この夜更けに何が始まるんだろう、激しいリズムで太鼓をかき鳴らす隊列がやってきた。いつまでも騒然としていて、眠れない。

 ぼくの知る日本の街は、どこも清潔で平穏になりました。物乞いも疫病も失せ、怒声や乱闘は減り、悪臭は去り、クラクションだってそう聞きません。コルカタも、そうなるんでしょうか。そうかもしれません。でも、この街を上回るカオスはもう地上にないんじゃないかと感じます。500万人もの人がいて、古くからの文明があって、すさまじい貧困と、成長への希望がどくどくと渦巻いています。このぎらつきが、清潔で平穏で、笑顔に変わっていくことは、コルカタにとって、インドにとって、いや、インドにエネルギー源になってもらいたい日本にとっても、うるわしいことでありましょう。

 でも、ぼくにはこのぎらつきが、この異界が、声には出せないけど、かけがえのない、いとおしい光に映ります。二度と来たくなくなるか、何度も来たいと思うか、どちらかになる、と言われる都市。ぼくが何度も来るとすれば、それは闇を抱える蛾の見出した光という憧れが、まもなく消えゆくはかなさを訴えているからでしょう。


リアリズムの田中角栄

 ■リアリズムの田中角栄 ーYahoo!個人「今日はこのへんにしといたる」2013/9/7(土) 11:30ー  早野透著「田中角栄」を読んで、改めて田中政治って何だったのかなと考えています。  毀誉褒貶のチャンピオン。金権政治、官僚操縦、数々の議員立法を通した政策マン。評価はさ...